トランクルームの情報を必要とする皆様へ
家には安心できる「型」のようなものがあると思う。
七から十までのステップに、もっとエネルギーを注ぐことができる。
たとえば「私は洗濯が好きだから、洗濯が楽しめるように屋上に物干し台をつくろう」
「私の家族はお互いに忙しいから、玄関から個室に入るのは、お互いにうるさくないような設計にしよう」
「私は自然素材のものが好きだから、インテリアは木でできたものを吟味しよう」「ゆったりくつろげる椅子を探して、ここに置こう」といったことを、
一生懸命に考えることができる。
その七から十までに、エネルギーを注ぐことで、暮らしは心からくつろげる「私らしい」ものになるのだと思う。
いま、生きて暮らすということ私は、いま、あたりまえの「型」がないことがさびしくてしかたがない。
「私たち」の暮らし、と呼べるものがない民族や文化なんて、ありえないと思う。
でも、それも、敗戦と経済至上主義のもたらした、わずかな数十年のあいだの混乱だったのではないか、とも希望を持っている。
「暮しの手帖」という、戦後に創刊された雑誌がある。
一貫して「自分たちの暮らし」についての提言をつづけてきた編集長の故・Hさんは、創刊当時にこんなことを書き残しているという。
「たとえば夜になると電灯のスイッチをひねるということだった。例えば寝るときは寝まきに着がえて眠るということだった。
生きるということは生きて暮すということはそんなことだったのだ」これは、戦争が終わったすばらしさをうたったものだ。
そんな背景はあるにせよ、日々、生きて暮らすこととは、ただなんでもない日常を、日常のこととしてできる、ということなのだ、とHさんは言いたかったに違いない。
けれども、その思いは、暮らしよりも経済が優先された経済成長の六十年間、真に顧みられることがなかったのではないか。
きっと、いまが、ふたたび「私たち」の暮らしをつくりはじめた時期なのだ。
私たち一人ひとりが、その役割を負っている。
私は、若い人が、男女を問わず、家と暮らしを自分のこととしてたいせつに思いはじめているのを、たのもしいことだと思う。
インテリアの雑誌が売れ、昭和中期のなんでもない日本家屋を好んで借りる人たちがいることを、心強いことだと思う。
あなたの自覚が、「私たち」の暮らしをつくる。
そんな時代に生きていることは幸運なのではないだろうか。
家に個性はいらないのである。
私ってナチュラルでしょうと見るからに自然体である人ほど、じつは自然に見えるように不自然な努力をしているのではないか。
私はそういう人が苦手なので、「ナチュラルな」笑顔で話しかけられると、つい身を引いてしまう。
そういう人には自己主張の強い人が多いのだが、まあ、その気迫がこわい、というだけの話ではある。
見るからに「個性的」な人にも、同じような気迫を感じる。
自己主張を「個性」というきれいな言葉で言いかえているだけで、「目立ちたい」「人と同じは嫌」といった強い欲があるように思う。
「わかった、個性があることは認めるから、私を巻きこまないで」と敬して遠ざけたくなるのである。
ファッションや行動で個性を発揮しようとするのは、かまわない。
友だちにならなければいいのだし、会ったときには見なかったことにすればいい。
人それぞれ、志向に違いはあるものだし、同じ人でも時によって志向は変わる。
お互いに共感できる人となかよくやれれば、それ以上むりをすることはないだろう。
なにも、みんなが同じ考え方でいなければならないわけではない。
しかしながら、家については、はっきりと断言する。
家には個性はいらない。
家で個性を発揮しようとするのは、社会の迷惑だ。
家で個性を発揮しようとするとは、具体的にはこういうことだ。
ごくふつうの木造住宅が並ぶ住宅街で、いきなり白亜の殿堂をかまえる。
外壁をあざやかなピンクや黄色に塗りあげ、近所で目立つようにする。
斬新なデザインをする建築家に依頼して、どこにもないようなかっこいいモニュメントみたいな家を建てる。
クリスマスには、垣根や家にイルミネーションをつけ、ちかちかと光り輝かせる。
庭に白雪姫や小人を並べ、塀には色とりどりのガラスブロックを埋めこむ。
建売住宅が並ぶ場所では、せめて個性を、と表札に凝り、となりとは違うかたちの門扉をつける。
まるで門扉の展示場のような住宅街を見たことがある。
それの、どこが悪いの、と思う人もいるだろう。
私は、ピンクの壁やイルミネーションや凝った表札じたいは、否定しない。
建築家の才能を競うような住宅も、否定はしない。
人それぞれ好みが違うのは当然のことだから、好きなものは好きでいい。
でも、好みを反映させたいなら、好みの住宅街を探すべきだ。
いままでその地域で築きあげられてきた調和を乱すかたちで個性を発揮しようとするから、社会の迷惑だ、と言うのである。
建築家のSさんによると、ヨーロッパにはアドレスコンシャスという考え方があるという。
どこに住むかが、その人の思想を表す。
そういう感覚のことだ。
日本の場合、「田園調布に住むのはお金持ち」「芦屋に住むのはお金持ち」「六本木に住むのはおしやれ」といった感覚はある。
でもそれは、住所によってステイタスを確保するだけの発想で、その人の生き方にふさわしい場所を選ぶ、といった発想ではない。
ある地域に住むのは、その地域が好きだから。
その地域が、自分の暮らしに合っているから。
そうシンプルに思えるならば、もともとある地域のよさを壊して個性的に目立とう、とは思わないだろう。
日本の住宅街に欠けているのは、「この地域に住むことがすでに自分の生き方の表れなのだ」という発想ではないだろうか。
どんな家に、どのように住むかがその人を表す、というところまではわかっていても、その地域に住むことの意味までは、なかなか思い至らないでいる人が少なからずいるように思う。
住む地域を、仕事や学校の都合で選んだり、土地の値段で選んだりする癖が定着してしまって、「地域に所属する」という、もっとたいせつなことを忘れてしまっているらしい。
街によっては、住民が「この街に住む」ということをとてもたいせつにしていて、住民どうしの約束事がしっかり整っているところもある。
私の住んでいる神奈川県では、逗子市にそんな住宅街がある。
披露山庭園住宅という、一九七〇年代に分譲された住宅地で、いわゆるお屋敷街だ。
住居専用の戸建て住宅でなければいけない、建物の高さは八メートル以下、生垣が原則、建蔽率は最大四〇パーセントまで、区画分割禁止。
こまごまと規約があるというが、それは「この街並みをたいせつにしたい」という思いの表れだろう。
そんな思いを、ちゃんと共有できていることがうらやましいとは思うが、これが資産家が住む住宅街だからできることなのだとすれば、かなしいことだとも思う。
どんなささやかな住宅街でも、住む人の地域への愛情さえあれば、できることだと思うのに。
私自身は、いま住んでいる茅ケ崎のNという街が好きだから、住んでいる。
戦後にできた街で、駅にも海にも近いので、東京の勤め人が住宅用、あるいはセカンドハウス用に家を建てたような地域だ。
わが家もふくめ、どの家も木造モルタルのふつうの家で、庭に木を植え、朝には前の道路を掃除するような人が住んでいる。
トランクルームにおける問題への理解促進お手伝いする情報サイトです。
プロによるトランクルームの評価やコラムも掲載しています。
トランクルームのご相談に丁寧にお答えいたします。トランクルームの相談ならココです。
